高専プロコン自由部門に落ちた話。

高専プロコンの自由部門老害4everこと、m教授の研究室に所属するマルサ, にゃおちゃん, gy神で出した。結果は予選敗退。

沖縄高専は基本的にICT委員会がプロコンに参加しており、学年はごっちゃで出すけど、わたしたちはどうしても最後に思い出づくりで5年生でやりたかった。わたしとマルサは受験生で、プロコンの1週間後にはふたりとも受験とかいうとんでもない日程ってのはわかってた。だけどそれでもどうしてもどうしてもみんなでやりたかった。

4人で(本当はできたらくまさんも一緒にやりたかったけど)プロコンに参加して、優勝したかった。目標は予選突破とかそんなんじゃなかった。

少なくとも今回突破した他の沖縄高専の3チームのどのチームよりも時間をかけた。2月から話し合いを始めた。たくさんアイディア出した。github見たらボツ案だけどボツ案にしなくてもいいようなレベルの案が正直たくさんある。

プロコンの1週間前にこのアイディアでいこうって決めたけど、そのアイディアでいくことに不安を感じてまた話し合いした。それは提出する2日前の水曜日。そこからみんなで急いで話し合って、本当に本当にこれでいこうっていうアイディアになって企画書作った。提出締切時間の0時まで学校で残って作業したけど、7秒間に合わず自分たちが出したかった資料は出せなかった(一応その前に仮で出していた版が審査されたはず)

0時0分7秒に提出して「受付は終了しました。」画面をみんなで見て、そこからみんなでマックに行った。別の大会に出すこと考えないとねーって言ったら、みんなも うーん、考えないとだねーって感じでプロコン行けないねっていう空気は出てた。

だから別に今日の結果発表がある前から落ちるのはわかってたっちゃあわかってた。

だけど今日やっぱりへこんでしまった。

原因はもう色々ありすぎると思う。まずわたしはプロコンに全力出せなかった。受験生と両立してやるストレスはとんでもなくて、話し合いをしてる時間も惜しくて勉強したいなあとか思ってた。精神的余裕もなく、とんでもないストレス状況で、プロコンを受験の休憩ぐらいで考えてリラックスして望むべきだったのかもなあと思った。

そういう状況だからこそ、ちゃんとにゃおちゃんとgy神に企画書作成はあまり動けないって意思表示をするべきだったのかもしれない。直接「わたし動けないからふたりにはがんばってほしい」って言ったことはなかったかもしれない。チームで動くんだもの。仲間にちゃんと理由を話したら、彼らはわたしやマルサのことを考えて企画書作成をもう少し主導的にやったかもしれない。

あとは2月からやったことで、時間の余裕を感じていたのかなあ。

なんかもうわかんない。とりあえず、わたしはプロコンに向き合うほどの体力と精神力がなかったんだと思う。結局「プロコン優勝したいー」とかいう口だけだった気がする。

家に帰って何度プロコンのことがつらくて泣いたかわかんないし、提出日にマックから帰ってすごく泣いてたし、もうとりあえず泣いてばっかりの最後のプロコンだった。競技部門に出たとき、つらくて泣いた記憶がない気がするのは辛い記憶を忘れたのかわかんないけど、とりあえずはじめての自由部門は、すごくすごく大変だった。

結局プロコン直前の開発によるつらさは体験できなかったけど、企画書作成のつらさは味わえたのでよかったのかもしれない。

最後の高専生活だからプロコンに参加したかったけど、結果を受け止めます。なんだかブログに書いたら少しスッキリしたし。

m研でまた話し合います。TLではすでにマルサとm教授が次について考えてるし、わたしも前向きにいきます。わたしたち4人でもう一回大会に出たいものね。今度はもう受験とかいう精神的圧迫もないので、全力で向き合います。終わったんじゃなくて、ここからがんばればなんかいいことあるんだっていうチャンスだって考えます。

「最後の一年も相変わらずプログラミングで充実してたね」って卒業式で言いたい